遠くでベルが鳴っている。
 男は発車の時間だということに気付き、慌てて荷物を抱えた。
 虫篭、トレンチコート、大きな羽が付いた帽子、おたまじゃくしの詰まった瓶。
 両手ではとても抱えきれないほどの荷物を、なんとか抱えようとする。ヘッドホンを首
にかければ脇に抱えていたおもちゃのピストルが落ちる。それを拾おうとすれば銀の鈴が
…。男は半泣きになってしまった。
 べそをかいている男の右手から、最高級の二十日鼠の毛をふんだんに使ったファーが滑
り落ちた。
 ヒールを鳴り響かせ、胸をこれでもかと強調したドレスを着た女がそれに気付き、悲鳴
をあげた。慌ててファーに駆け寄り胸に抱く。
 恍惚となっている女を見て、男は急に泣き止むとファーをぐいぐいと引っ張り始めた。
 女はまた悲鳴を上げる。無言の綱引きは一時間半も続けられ、決着はファーが真中から
ちぎれて付いた。
 ふたりとも無様に尻から倒れ込み、派手な音を立てた。いつの間にかできていたギャラ
リーから、笑い声が上がる。
 騒動を煩そうに聞いていたヴァンパイアが、別れを惜しんで唇を吸い合っていたジャン
キーから身を離し、口を開いた。
「君、先程からベルが鳴っているが、いつになったら発車するのかね?」
焦点の合っていないジャンキーは水死体のような笑顔を浮かべた。
「だんな、急いでも何も始まりません。今は別れを惜しみましょうや」
ヴァンパイアは幾許か考える素振りを見せると、またジャンキーに身を寄せた。
 それを目の端で捉えながら自称肉屋の男は声を張り上げた。
「さあさあ新鮮な肉はいらんかね!?世にも珍しい、セルフ解体ショーだよお!!」
いうな否や、肉屋はどこからともなく大振りの包丁を取り出し、自分の腿に叩き付けた。
包丁の切れ味は素晴らしく、一刀のもとに肉屋の足を切断した。足は回転しながら飛んで
行き、空の向こうに消えてしまった。人々から溜息が漏れる。肉屋は反対の足にも包丁を
叩き付け、足はまた彼方へと飛んでいく。肉屋はなんともいえない笑顔で、短くなった足
でこまのように回転した。一緒に包丁も振り回したものだから、ギャラリーの首がすとん
すとんと落ちる。停止した肉屋は手当たり次第に近くにある肉を解体し始めた。
 それを遠くから眺めながら、痩せ細った少女は母親を見つめた。
「あたし、おにくがたべたいわ」
母親が首を振る。
「駄目よ。…発車してから。発車してからだったら、いくらでも食べていいわよ」
「うそつき」
そう言った少女の呟きは母親に聞こえていなかった。母親は発車に備えてがらくたを掻き
集めていた。
 少女はこっそりと、二十日鼠のファーの切れ端を拾った。最高の手触りだった。あたた
かくて…なまぐさくて…
 少女がファーに頬擦りをしているのを、鍵屋がそっと見つめていた。指先がが鍵になっ
ている鍵屋は、手をがしゃがしゃ言わせながらあの細い両腕に包まれた自分を想像した。
うっとりとしていると、ヴァンパイアの細長い腕に包まれたジャンキーと目が合った。照
れ隠しに肉屋を見る。
 肉屋は周辺のものをすべて細切れにしてから、自分の腹を縦に裂き、腸をずるずると掴
み出していた。
 疲れ果てて座り込んでいたドレスの女が、血のにおいに興奮して、先程まで死闘を繰り
広げていた男にむしゃぶりつく。男もそれに応えようと上体を起こしたとき、肉屋の投げ
た腸が男の首に絡まり付く。
「ぐえ」
男は蛙のような呻き声をあげて肉屋に引きずられる。女は男の足にしがみついた。
 無言の綱引きがまた始まり、誰もが固唾を飲んで見守っていた。決着は二時間後に男の
首がちぎれてついた。
 女は男がちぎれた反動で強く頭を打ち、白目を剥いた。肉屋は力尽きて包丁を握り締め
たまま倒れた。拍手があがる。
 血のにおいで、頭をくらくらさせたヴァンパイアが口を開く。
「君、まだかね?わたしはもう、くらくらして…」
ジャンキーは半ば目を閉じながら呟いた。
「もうすぐです、だんな。さすがにもうそろそろ来ないとおかしいところです。こんなに
血のにおいをぷんぷんさせやがって…でも、今は」
 ベルが鳴った。発車時刻だ。男はちぎれた頭を抱えて女は白目を剥いて肉屋はぴょんぴ
ょんと跳ねながら少女は二十日鼠のファーを抱いて鍵屋はファーと自分を重ね合わせ母親
は結局何も持たずに。ホームから溢れ返りそうになっていた人々は瞬く間に列車に飛び乗
り、列車は物凄い速さで発車した。後には血の跡すら残らなかった。
 取り残されたヴァンパイアとジャンキーが呆然としていると、上から肉屋の両足が落ち
てきた。にぶい音を立ててぐしゃぐしゃになる。
 口をあけたままのヴァンパイアを見て、ジャンキーがふやけた笑みを浮かべた。
「なぁに、だんな。またすぐに次の列車がやってきますよ。急いでも何も始まりません。
今は別れを惜しみましょうや」