鍵屋は何度目かの溜息をついた。もどかしげに指をがしゃがしゃと鳴らす。
 鍵屋はその名のとおり、鍵を扱う仕事をしている。指は一本一本が工具になっており、
用途に応じて取り替えることができる。指を工具にする必要は無いが、皆形から入る。そ
こに意味は無い。個々に名前は無く、鍵屋で統一されている。この街ではそれで十分だっ
た。
 この鍵屋は低料金で仕事を請け負うので、そこそこ評判が良い。仕事はそれなりに来る
し、これといった不満も無い。だが鍵屋はまた溜息をつく。
 恋をしているのだ。相手はいつも仕事を頼みに来る、貧しい一家の娘。古ぼけたオルゴ
ールだとか今にも朽ち果てそうな宝石箱持ってきては、開けてくれと言う。
 たいしたものは入っていないだろう。だが、娘のどこか必死な様子や、震える細い手足
を見ると、鍵屋はふたつ返事でそれを引き受けてしまう。しかもほとんど無料で、だ。
 最初は貧しい娘への哀れみから始まったのかもしれない。だが、いつしか気持ちは高ぶ
り、今鍵屋は紛れも無く恋をしていた。
 このままでは埒があかない。薄暗い店内を見回した。廃屋と見間違えそうな店には、様
々な依頼品が積み上げてある。大小様々な箱。頑丈そうな金庫。ロッカー。鍵が壊れたと
いって引っぺがされたドア。
 おもむろに、近くにあった小さな箱を手に取ると箱の形を確かめる様に、指でなぞる。
錠の冷たさに背筋を這うものを感じながら、鍵穴に指を突っ込む。指を細かく振動させ、
引っ掛りを探り当てる。ゆっくりと指を動かすと、あっけなく鍵が外れた。中には螺子が
詰まっていた。
 鍵屋はそれを脇に置き、また箱を手に取る。仕事に没頭していれば、娘のことを考えず
に済む。
 ロッカーの鍵に取り掛かっている時、店のドアが叩かれた。
「どうぞ」
 遠慮がちにドアが開かれ、そこにはあの娘がいた。心拍数が跳ね上がるのを感じながら
笑顔をつくり、なるべく優しそうな声を出す。
「あああ。いらっしゃい。今日はどうしたのですか?」
 娘はロッカーに気を取られながら、手に持った木製の箱を差し出した。
「これを、開けてもらおうと思って」
 鍵屋は笑顔のままそれを受け取り、素早く指を走らせた。何の変哲も無い木の箱。簡素
な造りの錠。鍵穴に指を入れてみると、思ったより複雑に出来ている。見かけによらず、
なかなか手強そうだ。時間が掛かるかもしれない。しかし、いつもなら娘の依頼品はその
場ですぐ開けてやる。
 娘の様子を窺うと、鍵屋をじっと見ている。なんとなく言い出せない。箱に目を落とし
た。もしかしたら、チャンスかもしれない。娘と話す。何かを言わなければ。
「少し時間が掛かるかもしれません。そこに座っていてくれませんか」
 鍵屋が依頼品の大きな金庫を指差すと、娘は素直に腰掛けた。
 沈黙。かちゃかちゃという音だけが響く。
 娘は辺りを見回している。その姿を見て、溜息をつきそうになるのを堪える。
 棒のような手足。薄汚れてはいるが、大きな目が印象的な顔。ぱさぱさとした髪は腰ま
である。ああそういえば彼女の名前も知らない。何か言わなければ。
「そういえば…おじょうさん、お名前は?」
手を止めずに尋ねる。唐突だっただろうか。
 娘は何度か目を瞬かせると、首を緩く横に振った。
「無いわ」
「え?それは何かと不便では」
「あなたと同じよ。必要無いわ。少なくとも、この街では」
 鍵屋はああ、と頷きながら次の言葉を探した。
「いつも持ってきてくれますね。一体何が入っているのですか?」
 娘はまた目を瞬かせた。
「がらくたよ。あたし、鍵を掛けるのが趣味なの」
 それは自分に会いに来てくれているということだろうか。震える指先を交換する。
 娘はそれを見ながら頬杖をついた。
「あたしね、鍵を掛けるとき、いつもお願い事をするの。そうやって箱にお願い事を閉じ
込めれば、開いたときに叶うんじゃないかって」
 自分のことを話す娘に、頬が緩むのを感じながら鍵屋は口を開いた。
「願い事は叶いましたか」
「まだよ。少しずつ込めているから…たぶん、それで最後よ」
 娘が箱を指差す。
「一体、何を?」
「さあ?なにかしら」
 娘が視線を外す。訊いてはいけないことだったか…。鍵屋は箱に集中する。また指を付
け替える。
 暫くして、娘が視線を外したまま呟いた。
「難しいでしょう?最後のお願い事だから…」
 鍵屋は無言だ。あと少しで開きそうなのだが、なかなかうまくいかない。
「あたしね…お肉が食べたいわ。貧しいことに不満は無いんだけれど…それが役割だもの
うちは貧しくて、おかあさんはがらくたを集めている。あたしはそれを箱に詰めて、ここ
に持ってくる。鍵屋さんはそれを開ける。それで世界が回っているなら、それでいいわ」
 指先が引っ掛りを探り当てる。慎重に指を掛ける。
「でも、少しぐらい欲を出したっていいじゃない。ルーチンワークには飽き飽きしたわ。
だから、お願い事を詰めたのよ。少しずつ…」
 指をゆっくりと動かす。鍵屋にはもう、何も聞こえていない。
「あたし、知っていたわ。鍵屋さんのきもち…」
 鍵が開いた。次の瞬間、娘は粒子となって拡散した。虹色の粒子が、薄暗い店内できら
きらと光りながら辺りに充満した。鍵屋をふわりと包み込み、消えてゆく。娘の笑い声が
聞こえたような気がした。鍵屋はうっとりと目を閉じた。

 鍵屋が目を開けると、娘も箱も消えていた。
 鍵屋は溜息をつくと、指をがしゃがしゃと鳴らし、傍らにあった箱を手に取り鍵穴に指
を突っ込んだ。