空は晴れていた。嫌になるほど青く、どこまでも高い。わたしは窓から空を眺めつつ、
本を読んでいた。
何も無い、殺風景な古いアパートメントの一室。大きな窓は閉め切られているが、外に
はいい風が吹いていることだろう。
鮮やかな装飾の施された、分厚い本を捲る。誰が読んでもくだらないと思うであろう、
退屈な、ただ長いだけの物語。しかし、わたしは何故かそれを気に入っていた。
紅茶に手を伸ばし、たまに窓を見る。勇者が怪物を静めるために、聖なるフラダンスを
踊るところまで読んだ時、鍵の掛かっていない玄関から慌しい物音がした。
ああ、また発作が始まったのか。横目でそちらを見ると、彼が立っていた。
酷い顔色をしていた。髪の毛は寝癖がついたまま、目は大きく見開かれている。
「何」
立ったまま、細かく震えている彼に声を掛けると、彼は右手を持ち上げた。入ってきた
時には気が付かなかったが、彼の手には大型の拳銃が握られていた。それをそのままこめ
かみに押し付ける。
「お、おれ、これで…しっ死ねるかなあ」
やはり。わたしは本に目を戻し、考えた。彼は良い友人だった。昔はよく一緒に馬鹿な
ことをした。しかし、いつの事だっただろう。理由は分からないが、彼は壊れてしまった。
いつも笑顔を浮かべていた彼は、わたしの前で自殺未遂を繰り返すようになった。彼はい
つも本気なのだが、運が良いのか悪いのか、必ず失敗した。様々な方法で、しかし、わた
しはそれを止めない。退屈な物語以上の茶番だ。
「さあ…でも、ゴッホは一発では死ねなかったらしいよ。頭蓋骨って丈夫だから、弾をは
じいてしまったんだって。痛いと思うよ」
そう言うと、彼は俯いてしまった。口の中で何事かを呟き、今度は右目に拳銃を押し当て
た。
「こっこれなら」
ああ…それなら恐らく彼は死ぬことが出来るだろう。弾は眼球を貫き、その奥の脳まで
破壊することだろう。だが拳銃を押し当てた腕で、彼の顔が半分隠れてしまっている。彼
の顔が見られないのは嫌だった。
わたしが本から顔を上げずに鼻で笑うと、彼はびくりと震えた。瞳は左右に動き、顔色
は一層悪くなっている。止めるつもりはないが、わたしは口を開いた。
「どうして死にたいの」
彼は両手で拳銃を包み込み、わたしを見た。瞳の揺れは治まっている。
「こ、これ…これ凄く重たいんだ。おれはもうすっかり疲れたんだけど、頭ははっきりし
てるんだ。だ、だからおれは普通なんだまともなんだ。なのに空は青くて晴れてて、夜に
なったらきっと星も見えるよ。きっと奇麗だよ。お前は友達だから良いやつだから止めな
いでいてくれてるしずっと感謝しているんだでもおれはどうしたら良いのか分からなくて
迷惑なのかもしれないから分からなくておれはおれはおれは。どうしてこうなったんだろ
う?」
彼は口を大きく開け、拳銃を突っ込んだ。目を一杯まで見開き、じっとわたしを見てい
る。わたしはいつの間にか、本から顔を上げ、彼と目を合わせていた。
長い長い時間が経ったような気がした。彼は引き金を引き、そのまま後ろに倒れた。
気付けば、空はすっかり曇っていた。これでは星は見えないだろう。わたしは本を閉じ
て、彼にゆっくりと近づいた。彼はぴくりとも動かない。指から拳銃を引き剥がす。ずっ
しりと重い。そのままこめかみに押し当て、引き金を引く。かちり、と音がした。目を閉
じもう一度引く。かちり。何も起こらない。
最初から分かっていた。拳銃など、そうそう手に入るものではない。彼はまた失敗して
しまったのだ。失敗する度に、彼にこびりつくように残っていた心が死んでいく。わたし
は助けることなどできなかったし、助けようともしなかった。彼はやがて起き上がるのだ
ろうか。それとも、心が壊れた時に、彼は死んでいたのだろうか。
とっくの昔に遠くに行ってしまった彼に、少しでも近づけるなら。わたしは何度も引き
金を引き続けた。