彼がいなくなってから一年が過ぎた。私はあの時、何が起こったのかも解らないままた
だ呆然としていたが、今は彼がいなくなる前と同じように生活している。
何も変わらない。
街は相変わらず雑然としている。太陽は昇って沈むのを繰り返している。
一年。一年だ。なんだかとても短かったような気がする。私は朝からそんなことを考え
ながらただぼんやりと過ごしていた。昼前に訪ねて来た友人も、何をするでもなく窓から
外を眺めている。
「工事してるよ。道路剥がしてる」
突然、友人が呟いた。興味を引くようなものではない。私はまた彼のことを考える。そ
ういえば、友人はあまり彼のことで悲しんでいるようには見えない。しかし悲しみ方は人
それぞれだ。私が考えることではない。
「ねえ」
また友人の声に思考を切られる。仕方なく目を向ける。
「あれ、何」
友人が指差す先には埃を被ったピアノが置いてある。
「……ピアノ」
「それは見ればわかるよ。どうしてここにあるの?」
「知らない人が置いてった」
私の家は廃墟同然に見える。だからたまに迷い込んでくる人がいる。大抵は私がいるこ
とに驚き、帰っていく。そうでない人には少々痛い目に遭ってもらう。ここは私の家なの
だから仕方がない。
ピアノを置いていった若者は、私に気付くと「ごめんなさいごめんなさい」と言って帰
っていった。後にはピアノが残された。いつか取りに来るかもしれないと思ったが、彼は
まだ来ない。
「へえ。捨てに来たのかな。それにしても、まさか担いで持って来たわけじゃないよね」
「確かに……どうやって持って来たんだろう」
ピアノの前に座りながら、友人はまだ口を開く。
「いつ頃の話? 前に来た時は無かったと思うけど」
「前に来たって、随分前だよ。それを置いてったのは一年、ぐらい前かな」
友人は鍵盤に指を置いた。盛大に外れた音が鳴り響く。
「一年、か」
「彼が、いなくなってから」
私は思わず友人の呟きに付け足していた。友人が来た時からこんな話をするだろうと予
想していたが、口に出してみると鼓動が速まった。
「いなくなった、か。彼は死んだんだよ。まだ認められないの?」
「わかってる」
「死んだ」という言葉を聞くのは辛かった。それを言う友人の顔も辛そうだった。友人
もそう言うことで認めようとしているのかもしれない。
友人は外れた音を鳴らしながら言った。
「彼がいなくなって一年だ。彼の話をしようか」
しばらく部屋が静かになる。
「といっても、彼はいいやつだったとか今更話すもんでもないしね」
「ねえ、この一年、何か変わった?」
友人は手元を見つめたまま答える。
「ああ……特に何も」
「私も。確かに悲しかった。今も悲しい。ああ、頭の中は少し変わったかもしれないけど
ね、だけど普通に生きている。何だかそれがとても不自然な気がする」
「彼はいい友達だったけど、一年会わないなんてざらだったからね。君と会うのも久しぶ
りだね」
友人は微かに笑みを浮かべた。私も笑みを返す。突然、言ってもどうしようも無いこと
を言いたくなった。彼がいなくなってからずっと考えていたことだ。
「なんで人は生きるのだろう」
友人は予想通り、困ったような顔をして首を傾げた。
「青臭いことを言うね。青春時代でもやり直すの?」
「ああ……戻りたいな」
思わず私は顔を伏せた。昔だったら彼がいる。そんな私に友人は面倒くさそうに頭を掻
く。
「人間を高尚なもんだって考えるからいけないんだよ。生物として考えれば」
「私は遺伝子を残さない。じゃあ余計に意味は」
「本当に青春時代に戻っちゃったのか」
友人がため息を吐く。全くだ。ぼんやりしていたつもりだったが、私は結構落ち込んで
いたのか。
「彼がいなくなっても何も変わらない。私は普通に生きている。私がいなくなってもそう
なのか? 変わらないなら……じゃあ……」
変わらないのならば、なぜ生きるのか。友人は肩をすくめて窓の外に目をやった。
「変わらないのは悪いことじゃないよ。そもそも、世の中に変わるものなんてあるのか。
ほら、あの道路を見なよ」
わかるだろう、と問いかけられて、私は目を閉じ考える。
舗装された道路。月日と共に、やがて道路は朽ちて無くなるだろう。しかし、そこを人
が通る限り、いや人がいなくなってもその道路があった場所は道だ。道という本質を失う
ことはない。それと同じことだ。何があっても私という本質は変わらない。いつか私がい
なくなっても変わることはない。
彼も同じだ。彼の存在は変わらない。
「でも、実際彼はいないんだ……全然慰めになってないよ」
とうとう溢れて来た涙を隠すため、私は顔を手で覆った。友人はどうなのか。見えない。
「悲しみなんか乗り越えられるわけないじゃないか。こうやって慰めにもならない言葉を
かけるぐらいしか、できないって」
友人がピアノを鳴らした。外れた音が部屋に響き渡る。