おんなはけっきょくどうにもならないとふかいふかいためいきをつきました







風が強い。

彼女はいつも遠くを見ていた。
彼を見ているようで見ていない、視線は遥か遠くを見ていた。
そして決まって手を伸ばす。その見ている何かを掴むように。


いつもの屋上。手を伸ばしている彼女に彼はいつものように話し掛けた。
「何、見てるの?」
彼女は応えない。
「何か悩みでもあるの?」
彼女は黙って首を振り、手を下ろして彼の隣に座った。
「どうにもならないのよ」


彼女は何処ででも手を伸ばした。
彼には意味が解らなかったが、彼女の伸ばされた白い腕が嫌いではなかったので
その仕草も段々気にならなくなった。


ある時、暗い部屋に2人きりで居ると、彼女が珍しく饒舌になった。
「ねえ、貴方はどうやって死にたい?」
思わず彼が「え」と聞き返すと彼女は笑いながら続けた。
「ああ、違う違う。死に方じゃないわね。貴方は2度と目も当てられない程ぐしゃ
ぐしゃになって死にたい?それとも安らかに奇麗なまま死にたい?」
暗い部屋に白い白い腕が伸びている。
それを見ながら彼は考え考え言った。
「それは、まあ、奇麗なまま死にたいなあ。皆そう思うものじゃないの?」
彼女はふふ、と笑った。
「そう、そうよね。普通はそう思うわよね。私も、最初はそう思った。でもねぇ、
最近は、ぐしゃぐしゃになるのも、悪くないなって、思うようになったの。
ばらばらになってぺちゃんこに潰れて脳漿やら内臓も飛び散って…それこそ、
もう2度と見られないぐらいにね…」
伸ばされた手が、何かを掴むような形になる。

「そんな私を、貴方なら見てくれるかしら?」

彼は答えることが出来ず、彼女の顔を見ることも出来ずに、伸ばされた白い白い腕
を見つめていた。


それから彼女がそのような話をすることは無くなった。
寡黙な彼女に戻ったが、以前とは違っていた。
手を伸ばしながら何かを考え込んでいるようだった。


しばらくして。
彼はあの会話のことも忘れて、彼女の伸ばした手を眺めていた。
そうして微かな幸せを噛み締めていると、彼女がぽつりと呟いた。
「ねえ。大事な話があるの」
彼が彼女の顔を見る。
「ん?何だい?」
「明日、明日ね、朝の10時に此処に来て欲しいの」
彼が怪訝な顔をする。
「え。明日?朝の10時?今日じゃ駄目なの?」
彼女の手が何かを掴む。
「駄目。明日よ。見せたいものがあるの。朝10時。絶対よ」
彼女の言葉に只ならぬものを感じて、彼は頷いた。


次の日。
彼はいつもの屋上がある、いつもの廃ビルへ向かっていた。20階建てのビル。
時間帯のせいか位置のせいか。人通りは少ない。
ビルまで後10メートル程のところだろうか。
屋上から何かが落ちてきた。
それは物凄い勢いで地面にぶつかり、様々なものを撒き散らした。
ばらばらになってぺちゃんこに潰れて脳漿やら内臓も……人間だった。
顔どころか形さえよく分からない。
だが、彼にはわかった。
「あ、ひっ…あひいいいいいいいいいいいい。ひいいいいいいいいいいいい。」
口から悲鳴が溢れた。涙や鼻水や涎が止まらない。
彼女だった。
彼は尻餅をついてずるずると後退した。
その時、あの会話が、頭に浮かんだ。

「そんな私を、貴方なら見てくれるかしら?」

彼女の言葉。
見なければ。
悲鳴が止まっていた。鼻水や涎も止まっていた。
ただ、涙だけが流れ続けている。
見なければ。
彼は、立ち上がった。
見なければ。
震える足で、歩き出す。
見なければ。
見なければ。
見なければ。
ゆっくりと、集まってきた人々を掻き分ける。
前を向いたまま、彼女の前に立つ。
涙が止まっていた。
彼は、ひどく緩慢に、彼女を見下ろした。







おとこはけっきょくなにもわからないとふかいふかいためいきをつきました